Friday, April 16, 2010

リスクを取らない人たち。

昨日の北京国安との試合では選手たちが戦う姿勢を全面に出し、
飛弾暁のスーパーゴールもあって見事に勝利した。
(いやホント、素晴らしいミドルシュートだった)



その試合にSean Carrollさんという英国人のジャーナリストが取材に来ていた。
彼は現在日本に1年ほど住んでいてJリーグや代表の取材も結構な頻度で行っている方のようだ。
(AFCの公式HPの仕事もしている。)
ヤジマさんから紹介があってこの出会いが実現したのだが、久々に熱いトークを繰り広げた。
とりわけ彼の取材対象としての日本サッカーへの愛情は強く、
途中からどちらが取材されているのか分からなくなるほど熱を込めて語ってくれた。
試合前でちょっと忙しかったのだけれど、ウチのオフィスまで来てくれて1時間30分くらい。
その後試合開始に間に合わなそうになってしまったのでタクシーに一緒に乗り込み、45分くらい。

最初誰もが不思議に思うこのクラブの意義だとかを話していたのだけれど、
そのうちにJリーグや日本代表の抱える問題点だとか、どうすれば改善するんだろうね、とか、
日本という国の抱える問題点とか。

主に日本サッカーについて彼の言っていたことを要約すると、
  • 素晴らしい技術と可能性(人口とか社会のレベルとかを含めて)を持っている
  • しかし、日本代表は強くない
  • 日本はサッカーを難しく考えているんじゃないだろうか
  • サッカーは点を取るか取られるかのスポーツ。そのためにピッチで戦うだけ
  • パスばかりつないで怖くない
  • アグレッシブさと激しさがない
などなど。
耳が痛いというか、全く同感。

さらに、いくつか面白いエピソードを教えてくれた。
サッカー経験者でもある彼は以前、日本の子どもを指導したことがあるらしい。
都合でちょっと席を外さなくてはならなくなって、
「こんな練習を自分たちのイメージを作りながらやってみて」と伝えた。
彼としては子どもたちだから自由な発想で、
帰ってきたら遊んでるくらいのことを予想していたのだが、
全員が全員、その場を離れる直前に伝えた通りのトレーニングを黙々とやっていたそうだ。
「軍隊みたいだね」とコレナガが言うと、我が意を得たりといった表情で強く頷いていた。

こんな話も聞いた。
某クラブの試合を観たときに近くにいたクラブの広報に直接、某日本代表選手に取材を申し込んだそうだ。
その広報担当者は「取材申請はFAXじゃなければ受け付けられない」と返事をした。
彼は生まれてこの方FAXを使ったことがなく勝手が分からない。
そこで「メールで申請できないか?」と尋ねたところ――。

もうここまで書けば、多くの日本人の皆さまは結果が分かると思うのだが、広報担当者の答えは「No」。
申請用紙を画像でスキャンしてそれを添付して送れば何らFAXと変わらないと思うし、
コストもゼロで済むというのに、である。

また「あれだけ社会的に成熟した国なのにどうして英語を話せる人がほとんどいないんだろう?」と首をかしげていた。
「日本人は完璧を求めすぎなんじゃないか?僕が誰かに英語を話せる?と聞くと、大体は話すことができません、と答える。けれど、直後にその人に電話したら、僕の質問に対してYesとかNoとか話してくれるわけです。これって話しているってことでしょ?」と。
彼は「コレナガさんの英語はとても上手」と言ってくれるけど、そんなこと一度も思ったことない。
自慢じゃないがかなりブロークン。けれど彼との会話はほとんど問題無く通じる。

いわゆる「ジャパグリッシュ」については以前にも書いたのだけれど、
世界で英語を完璧に話せる人なんて数%なのだから、
ジャパグリッシュはただの「方言」として捉えて積極的に使っていくべき。
後ろめたく思うことなど何一つないし、
相手も日本人だと分かっているのだから、ちょっと間違っても何とも思わない。
(稀にいやらしい外国人がいないこともないけど、そんなもん一握りだ)

彼の話を聞いていてやっぱり思ったのが「日本人はリスクを取らない人たち」ということ。
人と違うことをやる、人と違う発言をする、批評をする、
日本を除く海外では大方においてその個性は認められるにもかかわらず、
悲しいかな日本では村八分の対象になる。
英語の話にしても「話せる」と言いながちょっと言葉に詰まったりとか、単語を忘れたりとか、
そういう母国語でなければ当たり前のことを「失態」と思ってしまうのだろう。
日本人の美徳とされている謙虚さや奥ゆかしさといったものは、
こと外国人相手には勘違いを生む無駄な振る舞いにしかならない。

そんなこんなで彼との間でも、残念ながらやっぱり日本の教育が悪い、というオチになった。
(「子ども手当」とか一時しのぎにもならんアホな政策やってるヒマがあったら、
後につながる教育改革をしないとホントにマズイ…)


これらSeanさんとの会話の例を挙げるまでもなく、
海外との人間関係ではガラパゴス化が間違いなく進んでいる。
「少子化→内需減少→海外との接点増加」
という流れの中でこのガラパゴス傾向では、まず間違いなく日本が取り込まれていってしまう。
このままでは、危ない。


で、冒頭に戻るのだけれど、
そういう意味で昨日のウチの試合は素晴らしかった。
何度もリスクを背負ってチャレンジする姿勢を見ることができたから。
ドリブルでの1対1を恐れずにトライし、遠くからでもシュートを積極的に放つ。
(実際に「ちょっと無理かなあ」と思った距離から放ったその1本が、素晴らしいゴールになったわけで)
交代出場の選手も躊躇することなく前に向かい、泥だらけになって前進する。
また、決してその行為自体は褒められたものではないが、
ピッチからベンチに向かって「どうすんだよ!」と叫んでみたり(笑)。
(ちなみに監督は「分かります。試合中、選手は興奮しますから」と理解を示していた)
あの試合でのああいう姿勢がレベルがどうあれ日本サッカーに足りないものだし、
日本人に足りないものだと思う。

だから、嬉しかったなあ。

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Tuesday, April 13, 2010

人間は流される。

常々、「人間の人格は周囲からの影響によってのみ作られる」と考えている。
(いきなりこんなことを書くと「自分で努力しても意味がない、と思ってるんだな」
などと捉えられてしまうかもしれないが、念のため、そういう意味ではない。)

人間は周囲との関係性の中で自己防衛本能が強く働く生き物だ。
何かアクションを起こす前に、
「どう思われるだろう」
「どのように見られているだろう」
と、程度に個人差はあるだろうが、少なからず気になるはずだ。
そして一人では生きていけないことを知っているので、自然と「周囲」の理解を得るような振る舞いをする。

この「周囲」という基準も人それぞれなので、
例えば若者が素行の悪い友達のグループに属していた場合、
もしかしたらその基準はそのグループに限られてしまうかもしれない。
その場合、多くは一般的に理解できない振る舞いをする場合がある。
同じように、勉強家が周囲に多ければ勉強するだろうし、
起業家の集団に身を置けば自然と起業するだろう。
さほど長くない人生だが、これまでほぼ例外なくこの公式は当てはまる。

つまり、人間は環境に思い切り依存するということ。
そもそも人間はサル→ヒトへと変遷する際に、
その場の環境に適合することで何とか進化を遂げてきたのが人間。
環境に適応する中で何とかアウストラロピテクスになり、その後のホモサピエンスと成り得た生物。
途中で一歩外れれば魚類やシダ植物になっていたわけで。
環境に適応することで種の危機を乗り越えて来たわけだから、環境に敏感なのはいわば本能なのだ。

で、あれば、人間は環境に適応する「=流される」という言葉のネガティブな側面ではなく、
その習性を理解した上でポジティブな意味合いのパートに視点を集中させるべき、と思っている。

つまり、自ら進みたいこと、やりたいことがあれば、まずは身を投じる。
シンプルで良いと思うのだ。
そうすれば自然と自分の思うように流される。

もちろん、そのベースに「こうなりたい」という強い想いがなければ意味がない。
その想いがあるからこそ、本来怠け者の人間を上手いこと自己暗示にかけることができて、
自ら置いた環境の中で無数の「気付き」を得ることができるのだ。
そして、その「気付き」を「学び」へと変えることが、自己を形成していくことと同義なのだと思う。


少々話は変わるが、例えば誰かが「環境を変えたい」と言う。
コレナガは全面的に大賛成だ。
その判断が「逃げ」であろうが「挑戦」であろうが、どちらでもいい。
ただ一点、そうやって環境を変えたことが自分の判断であると強く自覚しなければならない。
「何故、環境を変えたのか?」
と自己に繰り返し問いかけること。
自分自身の感覚に徐々にフィットさせていくこと。
そうすればその「学び」を通して自己を形成することにもつながるし、
最終的には最も自分に合った環境を見つけることができるはずだ。


で、長々と講釈を垂れたが、
もしもやりたいことが「サッカー選手」なのであれば、
まずは無理矢理にでもその環境に身を投じるのが一番だと思っている。
身体的な特性に左右される職業だから、上手く行かない場合もあるかもしれない。
けれども、そこで得た「気付き」は、自分の判断であると強く自覚できるのであれば、
人格形成にポジティブに影響すると思っている。

Thursday, April 01, 2010

「冷笑家」を動かそう。

「冷笑」は日本人の悪い癖だ。

誠心誠意正面でぶつかって結果が出なかったヒトに対して、
「ほれ見たことか」
「いわんこっちゃない」
「やる前から分かってるじゃん」。
なんていう、つまんない反応をするヒトが他の国と比較して多いと思う。

古来から地続きの隣国がない島国だった日本は、
何かしらを貶めることで比較対象を作り上げ、自分の地位を確認することが常態化したのかもしれない。
つまり、「無」から「有」を生み出すのが得意になってしまったのかもしれないけれど、
(これ、あくまでも感覚での話なので確証は全くない。)
とにかく、斜めから物事を見て、したり顔で「ふふふ」と笑う。
ああ、つまんないなあ。

そりゃ冷笑家でいる方がラクだし、何にもしてないのに上から見下ろした気持ちになれるし、
勝ち組になったような錯覚をするから気分もいい。
でも実際には何にも事を為していないし、何も生産していない。
だからこれって、人間が成長する上でとっても大きな足枷になってしまっていると感じる。
海外にチャレンジする若者が減っている、という現象もこれに関連してるはず)
ひいては国という共同体が成長する上でも残念な流れだ。
今どきのお笑い芸人の芸風なんかを見ていても、日本という国の閉塞感を強く感じてしまう。
日本が国として上を目指していたころの芸人さんは、もっとシンプルだった。

話は変わるが一番心を揺さぶられた日本代表っていつのチームだろうと思い返せば、
即答できる。94年アメリカW杯予選のチームだ。
やっているサッカーのレベルは正直高くないし、
現代に比べればとってもスローなテンポのサッカーだ。
トライアングルとかアイコンタクトなんてコピーを作ったけれど、
それも従来日本でやっていたことの単なるコピー化なわけで、別段目新しいことではない。
でも、そんなつまらんゴタクは抜きにして、
全身全霊懸けて戦ってるぞ、それこそこのヒトたち命懸けてるんじゃないか、
っていう覚悟のハートはTV画面の向こう側からビンビン伝わってきた。
当時中学生だったけれど普通のヘッドの競り合いのシーンとかで涙を堪えるのに必死だった。
(だからオムラムのヘッドの直後は5分間心臓の鼓動が上がりっぱなしで立ち上がることができなかった。その後、両親の手前何でもないようなそぶりで部屋に帰って号泣。何でだよー、って)

で、直後にJリーグの開幕があった。
(※Jリーク開幕は直後じゃなくてその前でしょ?とのご指摘いただきました。確かにその通り。でも何か思い込んでしまう雰囲気があった。)
これが、結果的に全力で戦った選手たちを受け入れる環境になった。
ドーハの悲劇がなければあれほどの隆盛はなかったはず。
逆説的に言えば全力で戦ったからこそ、みんなのハートを動かした結果の環境だったのだろう。
やっぱり、持ちつ持たれつなんだよね。
全力でやっていることが伝われば、観てる方だって全力で応えたくなるもので。

だから現状を揶揄するわけでは全くないけれど、
日本代表にしたって、戦術とかフォーメーションとかが前面に出てくるチームは心底愛せないんだよなあ。
選手の試合後コメントにしても(ありそうなだけ。これが実際あったかどうかは別問題)
「戦術上敢えて走らなかった」
とか
「試合にフィジカルが調整できなかった」
とか
「意思疎通が上手く行かなかった」
などなどがもし出てきたら、脊髄反射でちょっとなあ、と思ってしまう。

それは分析としては当然必要だけど、今話すことじゃないよね。
日本代表ってそうじゃないよね、と。
圧倒的に感情論になってしまうけれど、
全力で「魂」懸けて戦ってくれるチームだったら、こっちだって全力で懸けたい。
一緒に笑って怒って泣きたい。
ただでさえ冷笑家が多い(と思われる)国なんだから、
周囲の心を動かすためには自分の150%とか200%の力を出し尽くさないと、
応えてもらえないのかもしれない。
ゴタクは抜きにして、ね。
けれど、応えてもらうことができれば、それは誰よりも自分に跳ね返ってくる。
それはJ開幕でも実証済み。

ウチのチームも世界に例のない、
海外トップリーグで日本人だけの選手で戦っているチーム。
日本を代表する気持ちで全力で魂込めて戦わないといけない、
と、自分で書きながら改めて思った。